Report 1 涙雨に流されて
あの時。雅貴の妹である恋美がプロフェッサーの手下に誘拐されたあの時。
妹を助けに来た雅貴が、犯人に銃をつきつけられたあの時。
建物の天窓を破って空から降って来たのは意外な人物だった。
結城明日香。恋美のクラスメート。雅貴の家の居候。
そして───他ならぬ雅貴の恋人。
その姿を見て、犯人は。
プロフェッサーの手下であるカリンはこう叫んだ。
「現れたわね! 怪盗ルージュ・ピジョン!」
と。そして明日香が雅貴をカリンの銃弾からかばった時。
こぼれ落ちた。
明日香のダーク・ブラウンだと思われていたその瞳から。
他ならぬ、その瞳から。
ダーク・ブラウンの偏光コンタクトが。
コンタクトの落ちた瞳は、紛れも無いダーク・クリムゾン。
それは鳩たちを操る紅い瞳の怪盗の証。
明日香が他の何者でもない、雅貴の宿敵たる少女怪盗である証───!
明日香──ルージュはカリンから奪い取った銃を彼女に向ける。
「やめろ……っ!」
叫ぶ雅貴。だが、それは組織ハーブという最凶の怨敵を前にしたルージュ──明日香には届かなかった。
瞳にあらゆる怒りと憎しみの色をたたえ、銃と言う人間を殺すために生まれた武器の引き金を、ためらいも無く引いた明日香。
だがカリンは銃弾から逃れ、その場から失せた。
全てが終わり、静寂が残る建物の中で。
雅貴は明日香に何も声をかける事ができなかった。
明日香の中にある、負の行動原理。人としてためらうはずの一線を、簡単に越えてみせた。
雅貴の───恋人の目の前で。
それは雅貴にとって、自らの言葉が明日香に全く届いていなかったことの証明。
ショックだった。明日香がルージュ。その事実はいい。
だが、自分はルージュを救いたくて。ルージュをハーブの憎しみと肉親のいない孤独から救いたくて。
だからこそ、自分はルージュを追っていたのではなかったか?
ルージュが怪盗をやめると宣言したのも、自分が彼女を追いかけている、その意味が判っていたからではなかったのか?
そういえばルージュの引退宣言があったのと、明日香に告白をしたのとは、ちょうど同時期。
今なら解る。明日香がルージュだと判った今ならば。
ルージュは……明日香は、自分の中に救いを見てくれたから、怪盗をやめると宣言したのではなかったのか?
少し甘い期待を考えてしまった雅貴。
だが、現実は違う。雅貴の静止は、明日香を残忍な結果へと踏み入れさせる行動をやめさせようと発した言葉は。
明日香には全く届かなかった。
その現実が、雅貴の言葉を、行動を凍りつかせる。
静寂の中、明日香の声が響く。
「あたしたち……やっぱり、出会うべきじゃなかったのかもしれない……」
そんな事は無い。そう言いたかった。
声に出して叫びたかった。違うと。
だが───そんなことが言えるのか?
現実として明日香はルージュとして雅貴の前に立ち、敵に向かって銃の引き金を引いた。
雅貴の存在は、現実にルージュがハーブという敵を目の当たりにしたとき。
何の救いにもならなかった。止められなかったのだ。
未練がましいかのごとくに、手を前に出すことしかできなかった雅貴。
だが明日香は、身を翻してその場を去っていく。
雅貴の手は。必死に救おうと、明日香に向かってもがこうとしていたその手は。
他ならぬ明日香自身によってはじかれ、ただ空を所在なさげに泳ぐだけだった───。
どれくらい建物の中にいたのだろう。
気がつけば、母の必死な声が聞こえてくる。
大丈夫だと言葉を返し、ゆっくりと外に出る。
父が何かを言ってきたが、それを半ば無理矢理に振りほどいて。
いつのまにか大粒の雨が降りしきる外へと。
雨のしずくに混じり、雅貴の頬を涙が伝う。
「俺は、女の子一人も救えないじゃないか……」
自らを責める言葉。自らの無力を嘆く言葉。
そして───自らの思い上がりに怒り、自らの全てを否定する言葉。
雅貴は挫折によって、自らを無力ゆえの絶望という奈落の底へ底へ追い詰めようとしていた。
彼は気づいていない。
それは、自らを二度と立ちあがれぬ境地にまで追い落とそうとしている事なのだということに。
決して諦めぬこと、決して立ち止まらないこと。そうしたことに反することだという事に。
アスカの名を冠した者が決して行わなかった事。
まさしく「諦め」という一種の「負の境地」に自らを追い落とそうとしていることなのだということに───。
「ちっきしょおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!」
雅貴の嘆きは、自らの存在意義の崩壊とともに、雨の中に消えた───。
バカな事をしてしまったと。
心の底からそう思った。
でも後悔はない。正しいと思えることをした。
ただ───正しいのにバカな事をしたのだ。
人は生きていく中で、時折そうしたことをするときがある。
バカな事だが、それをしなかったら悪人で、人間であるならばそれをしなければならない。
そんな時が。
BAR裏切り者。そのカウンター席で。
その正しいのにバカな事をした紅の瞳を持つ少女が、その目を更に真っ赤なものにしてうつぶせになっていた。
カウンターは少女の涙に濡れ、出されたオレンジジュースはぬるくなり、一滴たりとて減ってはいない。
その向こう、流し台の方では老マスターが無言でグラスを洗っていた。
双方、共に無言。
だが数分近くたったとき。少女は立ちあがり、ぽつりと呟く。
「これから、もっとバカげた事をしなけりゃならないの……」
その顔には、笑みが浮かんでいた。
だが、普通の楽しいときに浮かぶ笑みではない。
自嘲の笑み。自らをバカにしきったときに浮かべる笑いだ。
流し台の老マスターは、少女の言葉を聞いて言う。
「やめとけ。もっと不幸になるだけだぞ」
少女───明日香は首を横に振り振り言う。
「今やらないと……先送りにすればするだけ、みんなもっと傷つく。あたしも、雅貴さんも」
「本当にそうか? 他に手だてもあるんじゃないのか?」
老マスターの言葉に、明日香はゆっくりと。
「無いわ、そんなもの」
言いながら、カウンターから離れて店のドアを開ける明日香。
外に出る瞬間、老マスターは明日香の背中へと言葉を投げる。
「お前の父親は……そんなことは望んでないはずだ! お前の父親は、お前の幸せを……」
そこまで聞いて。明日香は振り向く。
マスターの言葉が止まる。その顔には、絶望の色が貼りついていた。
そして明日香は底冷えのする言葉でぽつりと呟いていた。
「だったらあたしは……幸せになってはいけないのね。いろんな人を……傷つけて、困らせてきたから」
そのまま店の外へと出る明日香。
カウンターには、涙に濡れたオレンジジュース一杯分の代金が、店の薄暗い照明を反射して輝いていた。
恋美の事件から三日の時が過ぎた。
その時から振り続く雨は、未だに止む気配を見せない。
季節外れの停滞前線が聖華市にとどまっている───テレビでそんな天気予報が流れていたような気がする。
にび色の空。薄暗い部屋。
ここは飛鳥家の一室、二階にある明日香の部屋。そこに雅貴はいた。
壁際のベッドの上で。壁に背を預けながらも、少しうつむき加減の体育座りをして。
生彩の弱い瞳。その瞳が投げかける視線の先には、黒いスカートスーツが吊るされたハンガー。
明日香がルージュだと知ったあの日、それを否定する材料がどうしても欲しくて、明日香の部屋をひっくり返した。
だが、かわりに出てきたのは明日香=ルージュである事をしっかりと示す、この服。
雅貴はスーツをじっと睨みながら、頭を抱えて呟く。
「……くそっ」
悪態。それは誰に向けたものなのか。
ただ、その言葉を紡いだ雅貴の顔は、凄まじいまでの苦痛に歪んでいた。
ざぁざぁと未だ響き続ける、空からの涙の音。
普段なら、主の明るい声が聞こえるであろうこの部屋に、されどその音はなく。
静かな部屋に静かに入ってくる、雨の音。
「俺の謎だ……俺が解かなきゃ、意味は無い……。希望は、ある。ある、はず……」
自分に言い聞かせるように呟く雅貴。
「あいつはきっと、ここに戻ってくるから……」
何度も繰り返した言葉だ。
ルージュは逃げない。どんな事があっても。
だから、このまま互いに決着のついていない───あえて言うならば、互いの想いがぶつかり合う前に、逃げてしまった───そんな状況を、放ったままにはしないだろう。
だからルージュは、明日香は必ず雅貴に会いに来る。
それは今まで雅貴がルージュと相対してきた事による、経験則が導き出した答え。
だから雅貴は決心していた。
明日香が来た時には、絶対に決着をつけると。
雅貴は明日香と今まで一緒にいたのだから。
だったら、明日香だって雅貴に対して、思うものもあったはずだ。
そう、例えば───怪盗だった雅貴の母が、探偵たる雅貴の父に対していたような───そんな、気持ちも。
だから希望はあるはずだ。
雅貴はそれを信じて、ルージュを自らの手に捕まえる。
そう、決心していた。
© Kiyama Syuhei 木山秀平
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