Report 2 始まり


 その日も普通の朝で、ほんのちょっとの寒さが身に染むように思えた。
 いつも低血圧の彼女には、さらに起きにくい朝。
 冬の朝とは、そういうものである。とくに彼女―――結城明日香にとっては。
「うん……みゅぅ……」
 ごそりと身じろぎ。
 枕元の時計を見る。
 午前9時。普通だったら、遅刻決定の時間帯だ。
 だが、現在は期末考査明けの中休み。
 赤点を楽々クリアしている明日香には、学校に行く用が無い。
 一方で用があるのは……。
(恋美ちゃんよね……)
 明日香はまぶたの裏に、現在自分が下宿しているこの飛鳥家の娘の顔を思い浮かべた。
(確か、補習なんだったっけ。電算機実習の……。さすがについていく訳にもいかなくて……。あの補習って
 個別指導だから付き添いできないのよね……)
 用は『パソコンの使い方』の授業である。
 恋美は明日香とは違い、このテの電化製品には弱い。
 そこから更に『セットアップ』だの『GUIの効率的な使い方』だの『コマンド・プロンプト』だのと来れば
恋美自身にとってはもはやアタマが沸騰してしまうほどの領域だ。
 この時代の中学は1990年代近辺とは違い単位制が取られているので、自分が学ぶ教科の選択幅はある。
 だが、それでも卒業に必要な『指定単位教科』と言うものが存在しており『電算機実習』はまさしくその指
定を受けている授業なのだ。これを外すと、卒業できなくなるおそれがある。
 ちなみにこの科目。普段の授業ではクラス単位で受ける事になるのだが、補習になだれ込むと急にマンツー
マン指導となってしまう。できるだけ、単位を落とす人間を少なくするようにと言う学校側の配慮らしい。
 それを思い起こし、明日香はまた、心の中で呟く。
(恋美ちゃんも災難よね……)
 もう少しして起きたら、様子を見に学校に行ってみようか。
 そんな事を考えながら、明日香は未だ、まどろみの中にいた。

 聖ポーリア学院中等部・パソコン実習室。
「あれぇ?」
 箱型をした白い机が並んでいる教室の入り口で、恋美は間抜けな声を上げて。
「どうしたのかなぁ……誰もいない」
 思わず首を傾げ、時計を確認する。
 8時ちょうど。補習の開始時間ぴったりである。
「あの先生、いつもだったら5分前に来てるはずなのに」
 周囲を見回す。少しだけ、いやな予感。
 他にも補習の生徒がいるはずなのに、その人たちが来ていないのも気になる。
 いくら『電算機実習』の補習がマンツーマン授業だからと言って、本当に教室に2人っきりになるワケでは
ない。大抵は、数える程の補習対象者が少し離れて席に就き、その人たちの間を教師が次から次へと回って指
導するのである。
 しばし考える恋美。すかさず、ある結論にたどり着く。
「もしかして、休講?だったらラッキー!!」
 叫ぶが、もしそうならば黒板か掲示板に連絡事項として何か記してあるはずである。
 そこに思い至り、再び頭をかしげる恋美。
「忘れたのかな……?職員室に行って、聞いてみよっかな……」
 呟いて回れ右しようとする恋美。
 すると。教室の奥にある教員用の準備室へと続く扉が開く。
 動きの止まる恋美。
 扉から出て来たのは、自分と同じ制服を着た女生徒。
 落ち着いた物腰で恋美の方を向き、笑いかける。
 思わず微笑み返す恋美。
 出て来た女生徒は、ショートボブの髪型を揺らして恋美の前に進み出る。
「おはよう。羽丘恋美さん」
 その凛とした声には、覚えがあった。
「……あれ?どっかで会いませんでしたか?」
 恋美の言葉に、彼女は微笑みを絶やさぬままで。
「会ったかもしれないわね。あなた……アロマランドに来たでしょう?」
 はい、と頷く恋美。その瞬間、目の前の人物が誰か。いつあったのか解った。
「あぁっ!!グリーン・ガーデンのおねーさん!!」
 以前、恋美は友人たちと連れ立ってアロマランドに行った事があった。
 その時のアトラクションの一つで彼女と会っていたのだ。
 ちなみにグリーン・ガーデンとは、箱庭や日曜ミニ造園を体験するアトラクションである。
「……ウチの生徒だったんですか?」
 恋美の問いに彼女は頷き、口に人差し指を当てて。
「ええ、3年生よ。あたし、経済的に恵まれてないから……。学校には内緒よ?中学生のバイト、禁止されてる
 からね」
 いたずらっぽい笑みを浮かべる。
 頷く恋美。そこで思い直したような表情をして、尋ねる。
「あ。て、コトは、先輩も補習ですか?先生いないんですよ。困りますよねぇ。先輩、何か聞いてませんか?」
 すると彼女の表情が変化した。
 笑っているのは変わらない。
 だが。その笑みは涼やかなものから皮肉げなものへと変わる。
 彼女は皮肉に満ちた笑みを顔に湛え、恋美に言う。
「聞いてないけど……知ってるわ」
「え?」
 彼女の声音に不自然なものを感じ、表情を歪める恋美。
 その時。彼女が出て来たドアの方から、ガタンと言う物音がする。
 物音の方―――準備室のドアを見る恋美。
 そこには、さるぐつわを噛まされて、縛り上げられている電算実習の担当教師の姿。
「そもそも、この時間に補習なんてないのよ。羽丘恋美ちゃん。偶然先生がいたから、焦ったけどね。学院の
 コンピューターにちょっと細工して、あなたへの補習時間通達書類を改変させてもらったの。本来の補習時
 間はもっと後。他の人は来ないわ。これからの事は、あまり人に見られたくないし……ね」
 その声音に。恋美の背筋が寒くなる。
 思わず二、三歩後ずさり。
「ど、どうして……?先輩、あなた、一体……?」
 彼女は恋美の問いに、怜悧な笑みを湛えて。
「知る必要はないわ。これから……私たちの『コマ』となる、あなたには」
 言うと、彼女はパチンと指を鳴らす。
 瞬間―――恋美の瞳から、意志の光が消える。
 それを見て、彼女。満足そうな表情で。
「解るかしら?恋美。あたしの名は、大沢香鈴。組織『ハーブ』のカリン……」
 その言葉に。恋美は意志の無い人形のように、こくりと一つ、頷いた。

 階下の尋常ではないざわめきに、目を覚ます明日香。
「……何よ」
 少しむっとしてベッドから起き上がり、頭をぽりぽりかきむしる。
 『眼洗薬』と書かれている枕元のボトルとひょうたん型の小さな容器を手に取る明日香。
 手早くボトルの中に入っている薬液を少し容器に移す。
 容器を瞳の部分につけ、首を仰向けに傾ける。
 薬液が瞳を浸し、清涼感が目に染みていく。
 数度薬液の中でぱちぱちとまばたき。瞳のゴミが取れていく感覚。
 目が完全にすっきりした所で再び俯き、そっと容器を目から離す。
 ハンカチでそっとまぶたを拭い、ボトルの横においてあるコンタクトケースを開ける。
 中には、ダーク・ブラウンのカラーコンタクト。
 それを自分の瞳にそっと乗せ、姿見の前に椅子を持ってきて、座る。
 鏡には、紅い瞳をした明日香ではなく、ダーク・ブラウンの瞳を持つ明日香の姿が。
「よっし!!」
 両頬をぱぁん……と叩き、着ていたパジャマを脱ぎ捨てて普段着に着替え、机の上においてある眼鏡を顔に
かける。
 部屋のドアを開き、階段を降りようとして。
 階下から、雅貴が蒼い顔をして階段を昇ってくるのが見えた。
「あ、おはようございます。雅貴さ……」
 だが、雅貴は明日香も見えていないような勢いで部屋の中へと飛び込む。
「…………??」
 いぶかしげに顔をしかめる明日香。
 朝のまどろみから少しずつ頭をもたげていたものが、だんだんと明確な形をとり始める。
 それは、予感だった。
 しかもあまり良くない。
 有り体に言えば『嫌な予感』と言うもの。
 部屋から飛び出す雅貴。
 彼の泣きそうな表情に、明日香は声をかけるのを一瞬ためらう。
 だが、意を決して尋ねてみる。
「あの……雅貴さん?」
 どうしたんですか。
 そこまで言葉を紡ぐ事は、出来なかった。
 雅貴がはっとした表情を見せ、明日香ににっこりと笑いかけようとしたから。
 心配をかけまいと。
 それが解った。
 一方で雅貴。明日香が何を言いたいのか、即座に感じた。
 何が起こったのか、知りたいのだろう。
 だが。雅貴自身も。
 まだ自分の感情が整理できていない。
 本当だったら、自分がきちんと説明しなくてはならないのに。
 それができない程、自分のショックが大きい事に今更ながら驚く。
「明日香ちゃん……俺……」
 必死に感情を制御して、なんとか混乱を押え込み。
 ちょっとした衝撃でぱらぱらと崩れてしまいそうな笑みを顔に張り付かせて、雅貴が口を開こうとした時。
 階下から雅貴の母の悲鳴じみた絶叫が。
「待って!!あなた、本気なの!?」
「!!」
 母の叫びに雅貴は、弾かれたように階段を駆け降りる。
「待って、雅貴さんっ!!」
 慌てて雅貴を追う明日香。
 2人は素早く玄関の前を通り、応接間へと滑り込む。
 玄関に足を踏み入れた時。明日香は玄関横にある電話が無い事に気付いた。
 代わりに延長のモジュラーコードが繋がれており、それは応接間へと伸びている。
 応接間に足を踏み入れた明日香が見たもの。
 それは、電話。そして、電話に繋がった起動済みのパソコン。
「どうしたんだよ、母さん!!」
 父と母の間に入って叫ぶ雅貴。
 一方で、パソコンを覗き込む明日香。
「逆探知追跡プログラム……?」
 そう。パソコンの中には、相手の電話の位置を確認するための逆探知プログラムが常駐・起動されていた。
 横には、2つに折られた、白いB5の紙切れ。
 明日香はそれを拾い上げ、紙を広げて中を見る。
 そこには、ワープロかパソコンで打たれたように見受けられる文章。
 内容を見て、明日香は思わず絶句する。
 彼女の横では母が息子に訴える。
「冗談じゃないわ!!聞いてちょうだい、雅貴!!この人ったら、この状況なのに……」
 すると、父が反論する。
「しょーがねーだろ!!こういう場合の専門的判断として、こうするのが一番正しいんだっ!!」
 しかし。そんな叫びも明日香には、雑音のように感じてしまう。
 それほど、そこに書かれていた内容は、明日香自身にとって衝撃だった。
 呆然と。震える声で呟く。
「何よ、コレ……。どういう事!?」
 声と同じように、紙を持つ手も震えていた。
 明日香自身が陥った、思考と感情の混乱を示すように。

© Kiyama Syuhei 木山秀平
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