Report 9 2003年 聖華市 / 運命の出会い


 ラヴェンダーの犯行予測パターンを割り出し、伸一は3課の面々と共に、予測ポイントへと出向いていた。
 商店街にあるA宝石店。その内部ショーウィンドウの前に立っている。
 3課長は現場を伸一に任せて、署の方に詰めている。それを思い出して、思わずぼやく伸一。
「ホンットに……現場に出ろ、っての。今日の研修の何を聞いてたんだか」
 無線を取り出して、叫ぶ。
「はい、A班はポイントαに。B班はポイントγに。いつ来るか解らないから、絶対に気を抜かないで。簡易超
 小型酸素ボンベの準備も、怠りはないですね?先ほども言ったように、奴は催眠術を使います。彼女のラヴェ
 ンダーの香りを少しでも感じたら、即ボンベを使う事」
『了解』
 官僚社会にありがちの硬質的な返事が返ってくる。だが、少し引っかかるものがある。
 酸素ボンベは、ラヴェンダーの催眠術にやられない様にするためのものだ。特定の臭気を感知するとブザー
で知らせる仕組みも持っている。だが―――。
 そこまで考えた時。伸一の鼻腔がラヴェンダーの香りを捕らえた。
 慌てて酸素ボンベをつける。
「やだ!!妙に警察連中の動きが鋭くて、やり辛いと思ったら……あなたの仕業!?」
 後ろから、聞き覚えのある声。ラヴェンダーだ。
 慌てて振り向く伸一。そこには、かつて英国で一度だけあいまみえた少女の姿。
 伸一はその顔に、ポーカーフェイスの微笑を浮かべて。
「その通りですよ。仙道真珠さん」
 相手が自分の名前を言い当てた事に。ラヴェンダー、いや、真珠の表情に一瞬の動揺が浮かぶ。
「な、なんで……」
 なんであたしの名前が分かったのか。
 そう尋ねようとする真珠に、伸一は微笑を浮かべたままで。
「知り合いにいるんです。あなたの名前を知る人間が、ね。彼から聞きましたよ」
 真珠の知る限り、目の前の男の知り会いである可能性を持ち、彼女の名を知り、なおかつそれをあっさりと
教えてしまう人物の心当たりは一人しかいない。
「飛鳥大貴……アスカJr.ね!?」
「ご名答」
 伸一は呟くと同時に、袖の下に仕込んだ小さなボールを床へと落とす。
 ボールは床に触れた瞬間、ブシュウ……と言う音を出す。それは、ボールが無味無臭透明のガスを出す音。
「こ、これは!?」
 訝る真珠に、伸一。口調がカンペキに、冷徹な捜査官のそれになっている。
「私が2回も同じ手に引っかかると思いますか?どうせまたラヴェンダー臭気を利用した催眠術で来ると思った
 から、あなたが現場に残した香りを利用して、専用の解毒ガスを用意させてもらいましたよ。捜査科学も、
 結構進歩しているんです。それに応じたアイテムも、ね」
「くっ!!」
 最大の奥の手を封じられた真珠。表情を歪めて身を翻す。
「逃すか!!」
 小さく呟き、逃げていく真珠を追う伸一。
 彼女が逃げていく途中、所々でマスクをつけた警官とつけていない警官の取っ組み合いを目にする。
「……マスクが間に合わなかった連中がいたか。だから気をつけろと言ったのに……」
 走りながらぼやく伸一。
 先程の異様に硬質的な声は、恐らく催眠術にかかった警官のものだったのだろう。
 そこまで考えた時、真珠の言葉が響いた。
「その男を取り押さえなさい!!」
 すると、催眠術にかかって正気を失った警官が伸一に向き直る。その場に倒れていた警官もむくりと起き上
がり、伸一に迫る。
「こりゃあ……まずい、かな?」
 立ち止まり、呟く伸一。マスクのエアと周囲臭気反応をチェック。
「まだ周囲の臭気は危険レベル……エアの余裕も少ない、か……」
 これ以上は追えない。そう判断しようとした。だが。
 伸一の耳元で声が響く。
『こんな所で諦めきれるかっ!!』
 ロンドンで、伸一がこれ以上犯人を追えないと判断しかけた時。必ずそう叫ぶ奴がいた。
 そして、そいつは体力の限界を超えて犯人を追い、必ず逮捕した。
 伸一に聞こえたのは、ただ単に記憶の断片にこびりついたものが偶然形を成したゆえに聞こえただけの空耳
だ。だが、彼自身には。それが、親友からの叱咤に聞こえた。
「飛鳥……そうだね。君には教えられる事ばっかりだよ」
 ぽつりと呟く。伸一の横で、諦めきれるかと叫んでいた人間。それは、アスカJr.こと飛鳥大貴その人。
「諦めちゃ、いけないっ!!」
 伸一は叫ぶと、懐に手を突っ込み、金具のついている黒い玉を取り出す。
 金具のピンを抜き、催眠術にかかった警官たちの前に放り投げ、大きく叫ぶ。
「総員、耳を塞いで目を瞑り、口を半開きにして伏せろっ!!」
 その指示に、正気の警官全員が伸一の指示に従う。
 次の瞬間。猛烈な閃光と大音量の爆発。そして、爆風が刹那的に吹き荒れる。
 顔を上げる伸一。正気の警官たちもゆっくりと顔を上げる。
 そこには、催眠術にかかってしまった同僚たちが倒れていた。全員、先程の大爆発で気絶している。
 先程伸一が投げたのは、非致死性のスタン・グレネード。別名をフラッシュ・ボム。日本語で言えば特殊閃
光手榴弾となるだろうか。
 英国特殊部隊SASにより開発された、対テロ兵器としては一般的となった手榴弾の一種である。
 殺傷能力は皆無に等しく、猛烈な閃光と音量を以って数十秒の間、人間の視覚と聴覚を奪う。
 伸一が使ったのは、それのもうちょっと強烈な、特殊改良版である。以前にヤードで知り合った友人のつて
を頼り、分けてもらったものだ。
 伸一はすっくと立ち上がると、警官たちに指示を飛ばす。
「半分は同僚の介抱を!警察病院へ連れて行け!!後の半分はラヴェンダーを追う!!市内非常配備!!」
『了解!!』
 その声を受け止め、伸一はなおも真珠を追う。
 真珠は階段をはいつくばりながら上っていた。

「対テロ『兵器』を使うなんて……何を考えてんの!?」
 兵器、の部分に強いアクセントを入れて叫ぶ真珠。
 遠くにおり、背を向けていたために、直接的な被害は免れたが、それでも数秒体が動かなかった。
 爆発した時、爆風に背を押されてバランスを失い、階段に叩き付けられるように転倒し、体をすこし打った
ためでもある。
 今でも足が少しずきずきするが、そんな事には構っていられない。とにかく逃げなくては。
 走る真珠。追う伸一。
 伸一自身「待て」とは言わない。真珠もまた「捕まえられるものなら」などとは言わない。
 これは、死闘なのだ。双方ともに、それをいつの間にか理解していた。
 逮捕するか、逃すか。逮捕されるか、逃げおおせられるか。
 逮捕=真珠の怪盗としての命を絶つ事。つまり、死闘。ゲームやおいかけっこではない。遊びではない。
 これは、死闘なのだ。殺すか、殺されるかの。
 双方ともに遊びや余裕のない、殺伐とした追走劇が幕を開けようとしていた。

 真珠の手から幾重ものナイフが放たれる。
 うち一本が伸一の頬を掠め、後ろへと飛び行く。
 伸一の頬から、赤い血が数滴、散る。
 一方で伸一の手の中ではちゃきり、と言う何かを準備するような金属音。
「まさか、また……これを手に持つ事になるなんてね」
 呟く。伸一の持つそれは―――。

 階段の上まで行き着く真珠。このまま踊り場を抜けて上まで上がっても、やがて天井へ行き着き、行き場が
なくなる。そこまで読み、目の前の窓を見据える。
「しょうがない……」
 真珠は窓を開き、その桟に自らの足をかけ、後ろを睨む。
「この借りは、ロンドンでの事もあわせて、利子をつけて返させてもらうわっ!!」
 叫ぶと真珠は窓から夜の闇へと飛び出す。
 それを見て、伸一は慌てて窓の外を覗き込む。窓の真下にある商店街アーケードの上を真珠が走っていた。
「くっ!!」
 手の中にあるものを。特別捜査課時代に使っていた、特殊な丸いフォルムの電気ショッククラッカー銃を構
える伸一。かつて楓も使っていた、特捜の標準装備だ。だが、不意に構えをとく。
「射程を超えてる。撃っても、無駄弾になる……」
 呟く伸一。身を翻し、急ぎ階段を降りて宝石店の前に。
 すでに息切れと動悸が激しい。
「くそ……飛鳥なら、もう少しもつんだろうけど……」
 肩で息する伸一。アーケードを見上げる。コンコンと言う軽い音が、遠ざかっていく。
「もう、無理か」
 ぜぃはぁと言う喘息混じりにぽつりと呟く。諦めかけたその時。
 ドドド……と言う、バイクの音。
 振り向く伸一。そこには、バイクにまたがった、黒ずくめのライダースーツにフルフェイスヘルメットの女
性。その女性が尋ねてくる。
「高木。アンタ、何してんの?まだ制服って事は……仕事?キャリアのアンタが時間超えて現場に出てるって、
 どういう事?普通キャリア連中の警視と言えば、めったに現場には顔を出さないでしょ」
 声でリナと解った。伸一は肩で息をしながら。
「僕は現場主義だから……。君こそっ……何してるんだよ……」
「え?アタシ!?あたしは中学時代の友人がやってるマジックショーの帰り。ほら、アンタ、アスカに行くよう
 に行ってたじゃない。あのショー。アタシ、打ち上げ宴会に呼ばれてたのよね。さっきそれが終わってさ。
 こっちの方が家に帰るのに近道で、それに、この時間になると商店街の歩行者専用規制は解除されてて」
 そこまでリナの言葉を聞いて。伸一は停まっているバイクにすがり付き、言う。
「高宮さんっ……力を貸してくれ……っ!!」
「えっ!?」
 いきなりの申し出に、きょとんとするリナ。
 伸一はリナに必死で今までに至る状況をかいつまんで説明する。
「だから……力を貸して……!!」
 説明の後に、そう言う伸一。リナはきょとんとした表情を歪め、笑みを作る。
「高木……ほんっと、アンタってば……らしくない。キャリアらしくない」
「らしくない?」
 今度は伸一がきょとんとした表情を浮かべる。そんな彼に、リナ。
「お願いなんて。ちょっとアンタが階級にモノ言わせて、アタシに時間外勤務を命じれば済む事じゃない。そ
 れか、このバイクを徴収する、とか」
 その言葉に。伸一ははっとする。そう。リナの言う通りなのだ。『お願い』する必要はなかった。
 なのに、なぜ、伸一はリナに『お願い』したのか?昔の自分だったら、間違いなく『命令』していたのに。
(僕は……変わった……?)
 そう。変わっていた。いつの間にか伸一は、変わっていたのだ。
 大貴に出会ってから。大貴と共に動くようになってから。
 相手を―――気遣えるようになっていた。頭を下げる事を覚えていた。
 少し戸惑う伸一。そんな彼に、リナはにっこりと笑って言う。
「でも……悪くないわ。むしろ、あなたらしいかもね。そういうの、似合ってる」
 リナは言いながらバイクを降り、サドルを開く。その下には、もう一つフルフェイスのヘルメット。それを
伸一に投げる。メットを受け取る伸一。
 それを見て、リナは不敵に笑い、言う。
「あなたが一瞬見せた瞳。アタシ、それに弱いのよ」
 そこで言葉を切る。そして、寂しそうな顔をして。
「だって……それとよく似た光を湛えた瞳を持っているヤツを知ってるから……」
 その表情に、伸一。一瞬、何も言えなくなる。誰の事を言っているのかが解ったような気がしたから。
 だが、気を取り直して。
「僕も、たぶんその人の事、よく知ってると思う。僕が知っている彼なら、きっと君にこう言う。『こんな所
 でなにやってんだ!!』って。『立ち止まってんなよ』って」
 その言葉に。リナははっとして顔を上げる。そして、伸一をじっと見る。
 伸一の真剣な瞳。その光が、じっとリナを映し込む。
 リナはぽつりと呟いた。
「ホント……アタシ、こんなトコで何やってんだろ」
 そして、伸一は言葉を続ける。
「だから、力を貸してくれるかい?」
 静かな。だけど力強い伸一の言葉。それがリナの背中をぽんと押し、リナ自身を縛っていた何かを断ち切っ
たような気がした。
 リナは今一度、不敵に笑い言う。その笑みは今までのものとは違う。
 中学2年から今まで。きっと自分が知っている中で、最高の笑みだと思った。自分はこんなにいい顔ができ
ると、今になって知ったような気がした。
「乗って、高木警視。行くわよっ!!こんな所で立ち止まってらんないわ!!」
 伸一は無言で頷くと、メットをかぶり、リナの後ろに乗る。
 自分よりも大きいリナの背中にぎゅっと捕まり、伸一。
「行こう、高宮くん!捕まえるんだ!!頼んだよ!!」
 高宮『さん』が『くん』に変わっている。リナはそれに気付くが。
(こいつなら、いいかな……)
 そう思って、あえて訂正するのはやめた。
 なぜそう思えたのかは、自分にもまだ解っていなかった。
 リナがどれだけ大きな物を断ち切る事ができたのかを。その手助けができたのが誰かと言う事を。

 大きく伸びをする芽美。
 聖華市住宅地、横に川が流れている。
 マジックショーの打ち上げが終わり、それぞれに解散して、今は大貴と芽美の2人きりだ。
 両親は先に帰っているし、他の面々もそれぞれに帰って行っている。
 2人もまた然り。
「あ〜あ、頑張ったぁ〜〜」
 言う芽美に、大貴。
「ほんと、今日は張り切ってたよな」
「うん!!初舞台だったし……」
 芽美はそこまで言い、少し顔を赤くして、大貴に続ける。
「あなたがいてくれたもの」
 その言葉に。大貴の顔も少しだけ赤くなる。
「え……あ、その……だなぁ……」
「ごめんね。宴会中に高宮さんに聞いちゃったの。とっても大事な会議を抜けたんだって。ホントごめんね」
 頭を下げる芽美。それに大貴は少し吃りながらも。
「な!!いや、き、気にすんなよ!!そんな大事なモンでもなかったんだからさ!!だから……その……とにかく、
 だなぁ!!あ、だから、その、とにかく……」
 ここまで来ると、何を言ってるかよく解らない。でも、芽美には解ったらしい。
「うん!!ありがとう!」
 にっこりと笑って、確かに頷き、はっきりとした返事を返す。
 これも、両想いとして長年やって来た仲ゆえのものなのだろうか。
 屈託のない芽美の表情。大貴は赤くなりながらも、その表情を見つめ返す。
 2人の視線が合う。
 気のせいか、互いの視線が熱っぽいような気が、しないでもない。
「め、芽美……」
「うん……」
 互いの顔がすっと自然に近付く。ゆっくりと唇が―――。
 その、寸前の所で、サイレンが鳴り響く。
 2人ははっとして互いの顔を離す。
「な、何だぁっ!?」
 慌てて周囲を見回す大貴。芽美は不安そうに大貴を見上げ、言う。
「事件かなぁ?」
「でも、俺、何も連絡……」
 そこまで言った時。芽美が頭上を見上げて叫ぶ。
「あっ!!」
 その声につられ、大貴もまた、芽美と同じ方向を見上げる。
 民家の屋根の上。そこには、月の逆光に踊る、2人が知っている人物。
 その人物は、芽美の小さな叫びに気付き、振り向く。
「あいつ……っ!!」
 大貴が呟いた瞬間。その人物は2人の前に降り立ち、ニヤリと笑う。
「お久しぶり。お2人さん」
「真珠!!」
 叫ぶ芽美。警戒して言う。
「また、町の人の大事な物を取り上げに来たの!?」
 まだ大貴が本格的な探偵修行に入る前の事。この聖華市で芽美と大貴は真珠とその母に会い見える事が数度
あった。追い返すと言う意味では大貴たちが勝っているのだが、取り返しきれない品も幾許かあった。
 そういう意味では、痛み分け。まだ本当の決着はついていない。
 その真珠がこの場にいる。芽美と大貴の視線が鋭くなる。
「そうよ……と、言いたい所だけど。今はそれどころじゃないの」
 そこまで言って、意地の悪い笑みを見せる真珠。
「とはいえ。あなた達に嫌がらせするくらいの時間はあるかな?」
 その言葉を聞くと同時、芽美は気付く。自分の周囲に纏いつく香りに。
「しまっ……」
 気付くが、もう、遅い。芽美自身の足場がぐらぐらと揺れている。
 何かぬめっとしたものが頬を掠め、肩に乗った。
 振り向く。いやな予感がする。理性が振り向くなと叫ぶが、体が言う事を聞かない。
 芽美の目の前に。ちろちろと舌を出すトカゲが。
「ひぎっ……●*×△◆×◎ヶ※★×▽〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
 声にならない悲鳴を上げる芽美。目の前に誰かがいる。だが、誰かが解らない。涙で目が霞んでいる。
 そのだれかが芽美の両肩を掴む。だが、その手がぬめっとしている。
 芽美はすぐにトカゲを連想した。同時に目の前の人物がとてつもない大トカゲになる。
 すかさず暴れ、そして叫ぶ。
「いやぁっ!!離して!!だいっ嫌いぃっ!!」

「芽美!!しっかりしろ!!」
 大貴は必死に芽美を揺さぶり、正気に戻そうとするが、芽美は暴れ「離れて、いや、大嫌い」を連発する。
 そんな大貴に真珠の声が飛ぶ。
「ふぅん……成長してるじゃない。息を止めてあたしの催眠香を吸わない様にするなんて」
 そう。大貴は息を止め、催眠術にかからない様にしていた。基本である。
「でも……それもどれだけもつかな?皮膚呼吸だけはとめられないでしょ?」
 更に響く真珠の声。そうなのだ。催眠香は皮膚からも吸収されている。
 徐々にではあるが、大貴自身も催眠術にかかりつつあった。
(やばい……こいつは……!!)
 心の奥で叫びながら。何の準備もない自分を呪う大貴。
 瞬間、頼りになる相棒の事が頭に浮かんだ。
(落ち着け……あいつみたいに、冷静になるんだ。あいつなら、どうする。こんな時、どうする……)
 相棒。ロンドンでの相棒。高木伸一。なんだかんだ言いながら、冷静に対処し、最も的確な答えを出してく
れる。多少、人の心に対し冷た過ぎの感もあるが、決して感情には流されぬ冷徹な頭脳を持っている。
(あいつなら……あいつなら……っ!!)
 伸一の声が大貴の脳裏で響く。真珠の催眠術に対抗する術を議論していた時に、彼が言った言葉を。
『まず、解毒剤を持っておく事。それがかなわないなら、体内に蓄積されている催眠効果を持つ成分を、薄め
 る必要性がある。酸素だね。呼気に少しでも含まれる分でいいから、相手側に酸素を送り込む事が必要とな
 るんだ。そう……』
 次の瞬間。大貴は芽美と自分の鼻をつまむ。そして、互いの唇をぴったりとくっつけた。
 大貴の口の中に前もって蓄積されていた空気が、芽美の中に入り込む。
 ぎゅっと硬くなっていた芽美の体から、少しだけ力が抜けた。
 芽美の方から、呼気が来る。今度は大貴がその呼気を吸気として吸い込む。
 吸い込みながら、大貴は伸一の言葉の続きを思い起こしていた。
『口付けをし、人工呼吸の要領で、相手と自分の吸気・呼気を上手く使い、互いの体の中の睡眠誘発気体の量
 を薄めるんだ。少ししか保たないし、気休め程度にしかならないけど、他に手がない時の、最後の手段だよ
 ね。これは。当然自分の方は、それを行うだけ催眠術にかかる確率が高くなる』
(だけど……やらないよりはましだろ!!)
 心の中で呟きながら。ぼやっとなる意識を必死にたたき起こしながら。
 大貴は芽美の体をぎゅっと抱き締めるように支える。
「ふぅん……そういう手に出るの。でも、どれだけもつかなぁ?」
 小悪魔の笑みを湛える真珠。彼女も、この対処法には気付いていたようだ。
「そのテは長くもたないよ?完全に落ちた時、どんな命令を出そうかな?」
 うきうきとした笑みの真珠。苦々しくその笑みを見つめる大貴。
 徐々に意識が遠くなっていく中。大貴は、けたたましいバイクの音を聞いた。
 果たして、どこから響いてくるものなのか―――?

 自分よりも大きな背中。なんとなく、安心できる、その温もり。
 本当に安心できればいいが、今はそんな時ではない。
「高木警視、前!!」
 リナの言葉に、体を少しずらして前を見る伸一。
 そこには、真珠の催眠術に必死に耐える大貴と芽美。
「突っ込むよっ!!」
 叫ぶリナ。だが、それに伸一は待ったをかける。
「だめだ!!この前の空間はラヴェンダーの催眠香が充満してる!!このまま突っ込んだら、僕らもエジキになっ
 ちゃうよ!!」
「じゃあ、どうしろって言うの!?」
 叫ぶ間にも、目の前の現場との距離は縮まっていく。だが、その間に伸一。小さな路地を見つけた。
 大貴たちから少し離れた所に見える時計台も。
「あの路地に入って、あの時計台の中に!!」
「時計台の中ぁ!?どういう事!?」
「いいから!!あと1分でやって!!」
「ムチャ言わないでよ!!」
 叫ぶリナ。だが、そんな彼女の背中に伸一の体がぎゅっと押しつけられる。
「信頼してるから」
 伸一がリナに捕まっているその手が少し震えていた。
 リナはメットの下で微笑を浮かべ、呟く。
「しょーがないわね……」
 リナの華麗なテクニックで、バイクは伸一の指示通り路地に入り、時速230km/hで時計台の中に突入。
 この時計台、とある一件で持ち主が詐欺罪で捕まり、今は廃虚となっていた。
 開きっぱなしの玄関から突入するリナのバイク。
「入ったわよ!!どーすんの!?」
 すかさず尋ねるリナに、伸一。
「階段を昇って」
 同時にバイクが階段に乗り上げる。がたんがたんとイヤな振動。
 内蔵をシェイクされる感覚を我慢しながら、2人は上へ上へと昇っていく。
「それから!?」
 伸一は階段の一番上にある踊り場のガラス窓を指差して、叫ぶ。
「突っ込むんだ!!」
「またムチャを……!!」
 苦笑するリナ。だが、言葉の響きは表情とは裏腹に楽しそうに踊っていた。
「ムチャは承知!!どんな事をしてもいいっ!!」
 その言葉を聞いて。リナはこくりと頷き、言う。
「じゃあ、ムチャするわよっ!!」
 リナのバイクの両横腹には、細長い筒のようなものがついている。
 伸一自身はただのアクセサリーだと思っていたのだが、実は違う。
 いや、アクセサリーには違いないが、極めて『実用的』なアクセサリーなのだ。
 細長い筒―――専門用語で言う『パンツァー・ファウスト』使い捨て対戦車ロケット砲――――を構える。
 しかも、左手で。右手はしっかりとハンドルを握り締めて。
「伸一!!コイツを支えて!!」
「了解!!リナ!!」
 リナの指示に同じように左手で筒を支える伸一。
 いつの間にか、エキサイトしすぎて双方ともに互いを呼ぶ声が名字ではなく名前になっている。
 だが、2人がそんな事に気付くハズがなくて。
 バイクが階段を昇りきり、瞬間宙を舞う。
「Ready……」
 リナの呟き。続きがある。伸一はリナの声にかぶせるように叫んだ。
『Fire!!』
 2人のネイティブ発音が綺麗に唱和する。
 同時にドグォン!!と言う音が響き、筒の後ろから発射のためのバックファイアーが吹き出る。
 弾丸は彼らの出すスピード以上の推進力で目の前のガラスにぶち当たり、グガァン!!と言う音を出してガラ
スはおろか、壁まで見事にぶち壊してくれた。
 いまだ壁の周囲にめらめらと焼き付く空気の中を突っ込むバイク。
 このような状況で、なおも進むは、2人の執念の成せる技なのか。
 バイクはなおもそこに床があるかのように、宙をかっとぶ。
 その後に数テンポ遅れて、踊り場にカラン……と何かが落ちた。
 それは、リナたちのバズーカ発射行動の名残。本当にただの筒となった、対戦車ロケット砲の残骸だった。

「ぐ……」
 大貴は必死に催眠術に耐えていた。当然、口は離していない。
(ん……)
 催眠術にやられて気絶していた芽美だが、唇に触れる暖かな感触に、徐々に目を覚ます。
 遠くからバイクの音が聞こえる。
 目をぱっちり開ける芽美。目の前に、自分に口付けのキスをしている大貴の姿。
「アスカ……っ」
 思わず叫んだ事で、口を離してしまう芽美。大貴は思わず叫ぶ。
「よせっ……!!」
 その瞬間を真珠は見逃さない。にやりと笑い、呟く。
「これで、タイム・アウトね」
 その瞬間。ドグォン!!と言う音が響き、同時にバイクの音がより鮮明になる。
 全員が音の方を振り向く。そこからは、煙が立ち込めていた。その奥から出て来たのは―――。
 大貴は。待ちわびたとでも言う様に。嬉し涙さえ流して、その人物の名前を叫んだ。
「高木ぃっ!!!」
 芽美もまた、煙から出て来た人物の名前を叫んでいた。
「高宮さんっ!!」
 一方の真珠は。舌打ちし、にがにがしげにそのバイクを見つめていた。

 煙の中で、ボールを仕込んだパチンコを構える伸一。
「何よ、それ」
 尋ねるリナ。伸一はにっこりと答える。
「解毒カプセルさ。気体拡散式の、ね。地面にぶつければ、破裂して周囲に散る。しかも即効性」
「よくもまぁ、そこまで準備できたわね」
 言うリナに、伸一。笑いながら。
「備えあれば憂い無し。君だってそうじゃないか。フツー準備してないよ。パンツァー・ファウストなんて」
「まぁ、そうだけど」
 リナも微笑を浮かべ、同意する。
 やがて煙が晴れ、大貴と芽美の姿が見える。大貴が自分の名前を叫んでいるのが聞こえた。
 伸一は不敵な笑みを浮かべ、叫ぶ。
「Shoot!!!」
 パチンコから発射されるカプセル。
 大貴たちと真珠の間に着弾し、そのまま破裂する。
 ラヴェンダーの怪しい香りが消えていく。それを感じて伸一はガッツポーズを取り、叫んだ。
「よっし!!大成功っ!!」

 自分の催眠香が消えていくのを知り、引き際を感知した真珠。
 苦虫を噛み潰したような顔で、大貴と伸一を見る。
「ぐ……ホントに、ほんっとに、覚えてなさいよ!!何倍にもして返してあげるんだから!!」
 叫び、塀の上、屋根の上へと飛び上がる。
「くそ、待て……」
 大貴と芽美は追おうとするが、まだ足腰がマトモに立つ状態にはない。
 一方で。リナはポツリと呟いた。
「悪い知らせがあるわ」
「何?」
 尋ねる伸一。リナはすかさず叫ぶ。
「このままじゃ、川に突っ込むんだけど!?」
 伸一は「げっ」と低く呟き真珠の方を見る。その手には、もはやパチンコは握られていない。
 代わりに、握られているのは、特捜の電弾銃だ。
(ワンチャンス……っ!!)
 心の中で呟く。が、それが本当に訪れるだろうか。
「嫌だ……もう、嫌だ!!もう二度と怪盗を見逃すなんて……したくないっ!!」
 小さく呟いたその言葉は、誰も聞く事はなかった。
「絶対に捕らえてやる!!」
 その言葉の続きはなかった。伸一の待つワンチャンスが訪れたのだ。
 射程はギリギリ。届くかどうか解らない距離。
 引き金を引く伸一。ドシュ!!と言う発射音。電気クラッカーが宙を飛び、見事に真珠に命中する。
「ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっ!!」
 真珠は、断末魔と言えるほどの凄まじい悲鳴を上げて屋根の上から落ちて行った。
 と、同時に。伸一たちの乗るバイクもまた、川の中に突っ込み、派手な水柱を上げる。
『ぶはぁっ!!』
 川の水量はそれほどではなく、伸一の腰ほどまで。リナに至っては、太股までの推移。
 それに気付いた2人は、すぐに立ち上がる。
 そして、息もぴったりに互いの掌をぱちんと合わせ。
『楽勝!!』
 次にがっしりと互いの右腕を組み。
『快調っ!!』
 更に合わせ鏡の如く片手を伸ばし、もう一方の腕を上に挙げて。
『絶好調〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!』
 叫びながら踊りあう。彼らにしては珍しく、ナチュラル・ハイになっていて、互いに状況が見えていない。
 やっと立ち直った大貴は慌てて立ち上がり、川の下を見下ろす。
 妙に楽しそうな2人を見て一瞬だけボーゼンとしてしまうが、気を取り直して叫ぶ。
「おい!!高木!!高宮っ!!!」
 その叫びに。ナチュラル・ハイ状態から正気に戻り、リナと伸一は慌てて両手を離し、互いに少しあとずさ
る。双方の頬に少し朱がかかっているのは気のせいだろうか?
 もっとも、そんな事とはお構いなしに大貴は叫ぶ。
「真珠のヤツ、落っこちちまったぞ!?何やったんだ!!」
 伸一は咳払いをして、質問に答える。
「クラッカータイプ・スタンガンをこの銃から発射して、ぶち当てたんだよ。出力最大でまともに当たってる
 から、たぶん気絶して、しばらくは動けない。確保するなら、今のうちだよ!!」
 その言葉に。大貴は慌てて走り出す。彼女をこのまま逃す訳には行かない。急いで逮捕せねば、また多くの
被害者が出る事は必定だ。それにそんなものが当たったという事も少しだけ気になる。
「飛鳥!!」
 大声で大貴を呼び、それと同時にマスクを投げる。エアは少しだが、それでも何も持たないよりはましだ。
 大貴はそれを受け取り、頷く。大貴の頷きに伸一も同様の頷きを返して、叫ぶ。
「僕もすぐに行く!!」
 その言葉を背に受けながら。大貴は真珠を確保するため、既に走り出していた。

 芽美たちが真珠と遭遇していた頃。結城誠は、騒動の現場からそう離れていない場所にいた。
 彼もまた、ステージ打ち上げに参加していたが、早々に切り上げてアパートに帰っていた。
 なんとなく、大貴のそばにいて嬉しそうにしている芽美を見たくなかったから。
 それを見て、嫌な思いに晒され、どろどろしている自分がとっても嫌だったから。
 今は銭湯からの帰り道。今時珍しく、彼の住んでいるアパートには風呂がないため。
「……なんか、騒がしいなぁ」
 ぽつりと呟く誠。
 それと同時に、ドガン!!と言う大音量。体をビクッと震わせ、慌てて周囲を見回す。
「な、何だ?何だぁっ!?」
 リナたちが時計塔の廃虚でやらかした事は、誠からは死角になっていて見えない。
 次に、誠の頭上で。
「ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっ!!」
 と言う、凄まじい声。女性の悲鳴。
 刹那。
 ドスン!!と言う音が、誠の側で響く。
 音の方向に振り向く誠。そこには、長い髪を両後頭部で結んでいる少女がダンボールの山の上で引き付けを
起こしながら目を回していた。
「この娘……?」
 少女をじっと見る。周囲でパトカーのサイレン。
「何か事件か……?」
 その『事件』が目の前の少女によって引き起こされている事も知らず、誠は首を傾げる。
 時を置かずして、誰かが駆けてくる音。
(なっ……!?)
 慌てる誠。目の前には、気絶している少女。そして、その前にいる自分。
(……これって、シュチュエーション的に、誤解される要素抜群なんじゃあないかっ!?)
 誠は慌てて周囲に詰まれたダンボール箱を上手に積み上げ、少女の体を隠す。
 一番前に人の体が入るくらいの空箱を積み、あえてその蓋を開けておき、中が空である事をアピールする。
 こうする事によって、さらに奥に人が入っている空間があると言う可能性を人の無意識から削除させる事が
できるのだ。
 足跡は徐々に大きくなり、その主がやって来る。誠の知っている人物だった。
 その人物は誠の前に止まり、せっぱ詰まったような表情で。
「あっ!!君、確か、芽美のマジックショーで助手やってたな。その鮮やかな紅瞳が妙に印象に残ってたんだ。
 えっと、名前は……結城って言ったっけか?」
 その言葉に。誠はにっこりと笑って。
「はい。弟弟子の結城誠です。あなたの評判は、芽姐からよく聞いていますよ。アスカJr.さん」
 そう。誠の前にやって来た人物とは、大貴だったのだ。その大貴は慌てたように叫ぶ。
「Jr.はよしてくれ。もう俺もいい歳なんだ……と。ちょうどいい、結城くん。さっき、ここに、長い髪を両
 後頭部で結んだ女の子が落ちてこなかったか?」
 その言葉にちょっと動揺するが、顔には出さない。プロマジシャン必須技能のポーカーフェイス。
 何もなかった様に、誠は言う。
「いいえ?誰も来ませんでした」
 そこで誠はニヤリと笑い、大貴に言う。
「どうしたんです?芽姐って人がいながら、女の子の尻追っかけてるんですか?言いつけちゃいますよ??」
 その言葉に。大貴はにべもなく叫ぶ。
「馬鹿言ってんじゃねーっ!!そいつは、真珠って言ってな!!ろくでもないヤツなんだ!!いいか、結城くん!警
 察もそいつを追ってるから!!見つけたら、すぐに連絡してくれ!!」
 そう叫ぶと、大貴はその場を離れていく。ダンボール箱には目もくれない。
 おそらく、知り会い。しかも芽美の弟弟子と言う事で、無意識的にチェックが甘くなったのかもしれない。
「わかりました〜〜〜!!」
 遠ざかっていく大貴の背に言葉を投げかける誠。
 やがて路地の奥で「いたか、飛鳥!?」「駄目だ高木。こっちじゃねーみてーだ」と言う言葉が聞こえ、足音
がさらに遠ざかっていく。
 誠は一息つくと、積んだダンボールを崩し、奥から少女を引っ張り出す。
 少女―――真珠の顔をじっと見つめる誠。
「そんな娘(こ)には見えないけどな……」
 呟くと、その背に真珠を背負い、誠は自分のアパートへとその歩みを進めるのだった。
 なぜ、誠は少女を庇ったのか。もしかしたら―――頭に来ていたのかもしれない。アスカに。
 どんな時でも仕事。芽美の事をまじめに考えた事があるのかないのか、誠の目からそれを見た時、まったく
解らない。彼が見た限りでは、とても、大貴が芽美の事を大事に思っているとは考えられない。
 それなのに、芽美の目は大貴に向いたまま。芽美からすれば、大貴がどれだけ自分の事をよく考えてくれて
いるのか、良く解っているし、大貴自身もそのつもりでいる。だが、誠にはそれが解っていない。
 だから。誠はそんな2人の関係を少し誤解し、そして腹立たしく思っている。
 しかも彼の怒りのベクトルは、芽美にではなく、全て大貴に向かっているのだ。
 ゆえに。誠は大貴の仕事を妨害した。
 そこまで考えて、苦笑する誠。
「まったく、しょうがないな。僕は……」
 呟きながら、とにかく真珠を背に、アパートへと向かって歩き続けていた。

 結局、警察はラヴェンダーの足取りを掴みきる事はできなかった。
 が、伸一自身は、宝石店から物品を死守したと言う事で、お咎めを受ける事はなかった。
 リナについては、ラヴェンダー追撃において一線で活躍したという事で、金一封が授与された。
 その裏に伸一の進言があった事を、彼女は知らない。
 ただ、残念ながらそれは、水に浸かったバイクの修理費に消えたと言う。
 その後、日本にラヴェンダーが現れる事は無かった。
 いや、日本どころか。この時点から数ヶ月間、世界中のどこにも、怪盗ラヴェンダーが現れる事は全く無
かったのである。

 少女は、小さな安アパートの一室にある布団の中で目を覚ました。
 トントンと言う、包丁の音。
 むくりと起き上がる。すこし、体中が痛かった。
 音の方を見る。少年が必死に自炊していた。
「あの……」
 声をかけてみる。振り向く少年。切り子細工のような、澄んだ紅い瞳が少女を映す。
 少年はにぱっと笑い、少女の元に歩いていって。
「はじめまして。おとつい、路地歩いてたら、君、いきなり落ちて来たんだよ。丸一日近く寝てたね。よっぽ
 ど疲れてたんだ」
「え……?」
 いきなりの少年の言葉に。少女は必死に記憶を探る。
「まったく……警察に追われるなんてどんな事してたのさ」
 その言葉にも、少女はどんな反応を返していいのか解らない。
「ま、いっか。言いたくない事もあるだろうし。僕の名前は、結城誠。これでも、マジシャンの卵なんだ」
 誠はそう自己紹介すると、少女に尋ねる。
「で、君の名前は?」
 少女は。きょとんとした瞳で、誠をじっと見る。数秒後、彼女は呆然として呟いた。
「名前……あたしの名前……?あれ……?」
「え?」
 疑問符を浮かべる誠。少女は体中でも、一番痛む頭を抑えて。
「あれ……あたし、誰……?それに、さっきあなたが言った事も、なんだか……覚えがないし……」
「まさか……!?」
 誠の表情に戦慄が走る。ある可能性を思い付き、慌てて隣室に住んでいる医者を呼んだ。
 絵梨佳と呼ばれている女医で、時折誠も体調がおかしい時に看てもらっている。
 前歴はよく解らないが、どこかの金持ちの専属医らしく、口が堅い事でも有名な人物らしい。
 絵梨佳は少女に一通りの質問をすると、ゆっくりと首を振って宣告した。
「……りっぱな逆行性健忘。いわゆる、記憶喪失よ」
 予測していたとはいえ、その結果に驚き、何とか元に戻せないかと誠は尋ねた。だが、返ってきたのは、型
通りの「戻す方法は解らない。とりあえず日常生活には支障がないから、あなたがここで生活を看てあげるの
が一番でしょ」と言う答えだった。
 絵梨佳が出ていった部屋で、少女は済まなそうに誠に言う。
「すいません……ご迷惑ですか……?」
 その言葉に。誠は笑みを浮かべて言う。
「そんな事はないさ。君の事は、僕が望んでやってることだし……君さえよければ、ここで暮らしてくれてか
 まわないよ。君の名前だけど……」
 そこまで言って。誠は自分が少女の名前を知っている事にようやく思い至った。たぶん、アスカJr.が言っ
ていた、あの名前だろう。
 少女に、その名前を言う。
「真珠……でどうだろ?たぶん、これが君の名前だろうと思うんだ。うまくすればこの名前を使う事で、君の
 記憶がじきに戻ってくるかもしれない」
 誠の言葉に。真珠はにっこりと、いつもの彼女なら絶対に浮かべぬであろう、安らかな笑みを見せて。
「はい」
 と、素直に頷いた。

© Kiyama Syuhei 木山秀平
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